くしゅん の ぶろぐ

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くるしみ の れんさ お たちきる ため に うまれさせよー と しない こと。

どーも。 くしゅん です。
うまれさせる こと に はんたい する ぶんしょー です。 はんしゅっせいしゅぎ(反出生主義) に ついて かきました。 てきとー に かいた ので、 おおめ に みて ください。わかりにくい ところ わ おしえてくだされば、 かきかえる かもしれません。
まだ きまってません が、 しぬ まで に わ かいておきたかって ので かきました。



「まつだい まで のろってやる。」
と いわれる と する。この ことば に こたえる と すれば、


「じぶん が まつだい だ。」

と こたえれる だろー。ここ で わ 「まつだい」 と わ、 じぶん に とって こども と なる ひと わ いない とゆー いみ である。 つまり、あいて が 「あなた の こども、 その こども、 と つづいていく、しそん(子孫) ぜんいん お のろう」 と ゆってきた。しかし、 「じぶん わ こども お うまれさせない ので、 あなた の のろい わ じぶん で おわり に なる。」 と いいかえす こと で、 あいて の よそー お うらぎる こと に なる。

ちなみに まつだい とゆー ことば の もともと の いみ わ しんだ あと とゆー いみ らしい。 もともと の いみ だけ お だいじ に する ひと わ きおつけてほしい。 しかし、 もともと の いみ お 「ただしい ことば」 など と ゆー の わ やめて ほしい。 ことば わ かわる もの だ。 ことば で わ、つーじる、 つーじない とゆー かんがえかた わ つかえる。 しかし、 ただしい か まちがっている か とゆー かんがえかた わ つかえない。また、 どーとく てき に よい、 わるい とゆー かんがえかた わ つかえる。しかし、 ただしい か まちがっている とゆー かんがえかた わ つかえない。 ある ことば の つかいかた が 「ただしい」 とゆー とき わ、 まじょりてぃ に つーじやすい とゆー いみ で いわれる こと が ある。こみゅにけーしょん として の ことば わ、 ことば お あらわす ほー と ことば お うけとる ほー と の りょーほー が せきにん お もっている。だから、 かたほー、 とく に まいのりてぃ に せきにん お おしつける 「ただしい」 ことば とゆー かんがえかた わ やめて ほしい。

さて、どーい も なく くるしみ お あたえる こと わ やめてほしい。 たとえば、 どーい も なく ぼーりょく お する の わ やめてほしい。 もちろん どーい が あって も、 やめた ほー が いい ぼーりょく と、 やっても わるい と わ いえない ぼーりょく が ある と おもう。

たとえば、 せっくす とゆー ぼーりょく わ どーい が ちゃんと なせれれば わるい と わ いえない と おもっている。しかし、 さべつ や ひんこん、 くるしみ が いろいろ ある この しゃかい で わ、 「ちゃんとした どーい」 お する こと わ むずかしい。 とくに、 じょせい と される ひと と、 だんせい と される ひと と の ふたり で の せっくす わ、 びょーどー に どーい する こと わ むずかしい だろー。 けっこん とゆー せいど に わ、 せっくす が くみこまれている ため、どーい が なくても せっくす して いい と かたほー が、 そして りょーほー が おもいこんでしまい、 せいぼーりょく が おきる こと わ よく ある。たしか に ごーい した と いえそー な ばあい も、 ほんとー に それ お ごーい と いって いい の か わからない ばあい も おおい。 せっくす お する ひとたち わ、さまざま な りゆー で せっくす お する。その りゆー に わ、 せいさべつ(性差別) お ちゅーしん に、 いろいろ な ふびょーどー な かんけい が ある だろー。つまり、とく に じょせい と みなされる がわ わ、だんせい と みなされる がわ に くらべて ふり(不利) な じょーたい に なりやすい。もちろん、 せっくす に かんけい する の わ、せいさべつ だけで ない。たとえば、どーせい どーし の ぱーとなー の あいだ に も さまざま な ゆーり(有利) と ふり(不利) が あり、 せいぼーりょく わ おこりうる。だから げんじつ の ひと と の せっくす わ、 ちゅーい が ひつよー だ。 ちゅーい が ひつよー な だけ で あって、 せっくす するな と ゆっている わけ で わ ない。

どーい も なく くるしみ お あたえる こと わ やめてほしい。 ひと お うまれさせる こと わ くるしみ お あたえる こと で ある。そして、 どーい お とって なにか が うまれさせる の で わ むり だ。 うまれさせる の わ つね に むりやり だ。 だから、

みんな が まつだい に なって ほしい。

むずかしい こと わ わかっている。 なぜなら、 しゃかい わ あらた に ひと お うまれさせない ひと が ふり(不利) に なる よー に なっている から だ。
まず、あたらしく ひと お うまれされる こと わ とーぜん の こと と おもわれている。 たとえば、 ものがたり に でてくる ひとたち わ こども お うまれさせる こと で、 はっぴーえんど と なる。

とても しすじぇんだー で へてろせくしゃる に つごー が よい さべつてき な しゃかい だ。 さべつ と わ、 さべつ に はんたい しなければ、 あたりまえ で ある よー に みえる こと が おおい。 じょーしき が さべつてき である こと わ たくさん ある。

たとえば、こども が そだてられる かんきょー の おおく わ、 じぶん お うまれさせた ひと と くらす こと に なる。 じぶん お そだてる ひと たち と まったく ちがう かんがえかた お する こと わ むずかしい。 いきていく ため に、 ほか の ひと の たすけ が ひつよー だから だ。そして、たすける ひと わ おや である べき だ とゆー ひどい かんがえかた が ひろまっている。 すると、 まわり の ひと わ むりやり あらた に ひと お うまれさせる こと お やってきた ひとたち に なる。 そこ で の じょーしき わ こども お どーい なく うまれさせる の わ よい こと だ とゆー かんがえかた だ。

そして、 こども お むりやり うまれさせる こと が あたりまえ の しゃかい で わ、 こども が いる まじょりてぃ が あんしん して くらせる よー な しゃかい に なってしまっている。つまり、 こども が いなければ、 あんしん して くらせない よー な しゃかい に なってしまっている。

だから その しゃかい の ありかた お かえよー! こども が いなくても、じんせい お いきのこる とき の くるしみ や ふあん が すくなくなる よー に する べき だ と おもっている。

しかし、 そもそも ひと お あらた に うまれさせる こと わ どーゆー こと だろー か?

どーい お とって なにか が うまれさせる の で わ ない。 うまれさせる の わ つね に むりやり だ。

うまれる まえ の ひと に うまれたい です か? と きく こと わ できない。 うまれさせられる もの の くるしみ わ かんがえられず、うまれさせる ほー の りえき の ため に、 うまれさせられる もの わ ぎせい に される。いきている と くるしみ わ かなり かんじる。
おなか が すく くるしみ、
からだ の つかれ、
のど わ かわく くるしみ
ねむけ に よる くるしみ
ねれない くるしみ
さむい くるしみ
あつい くるしみ
おちつかない くるしみ
ふあん に なる くるしみ
しぬ くるしみ
けが の くるしみ
せいぼーりょく お うける くるしみ
せいぼーりょく お いきのこった もの に わ、 せきにん お おしつけられる。そして せかんどれいぷ お うける。つまり、 ひがい お むりやり おもいださせたり、 ひがい お うけた ほー だから こそ こーげき お うけたり する。
かね が ない くるしみ
はたらかなく て わ ならない とゆー くるしみ
ころされる くるしみ
たたかれる くるしみ
さくしゅ される くるしみ
むし される くるしみ
おいだされる くるしみ
くるしみ お わかってもらえない くるしみ

これ いじょー わ つづけない。 これら の くるしみ お、 ほか の ひと に あたえる こと わ よい こと だ と わ おもえない。どれだけ たのしみ が あっても、くるしみ が ちょーけし に なる こと わ ない だろー。この くるしみ お ほか の ひと に うけさせる こと こそ、うまれさせる こと なのだ。これ お よんでいる ひと の ほとんど わ ここ まで いきのこってきた ひと だろー。 だから、「もし じぶん が うまれさせられなかったら」 と かんがえる と、 こわくなる かもしれない。 しかし、それ わ いま いきのこっている から こそ、 その そんざい が なくなる こと が こわく かんじる の だろー。 しかし、 いきのこっている もの の はなし お している の で わ ない。 まだ けっして うまれてきていない もの お うまれさせる こと お かんがえている の だ。もし、 うまれてこない こと が ふりえき に なる なら、 つねに うまれさせる こと お かんがえない と ふりえき お あたえる こと に なる だろー。 しかし、 そんな こと わ ない。 いま ふにんちりょー お うけていない こと、 いま あたらしく ひと お むりやり うみださせる ため の なにか お してない こと わ せめられる もの で わ ない。
しかし、 むりやり うまれさせる こと わ、 くるしみ お うける ほか の もの お つくりだした こと に なる。

もしかしたら、 くるしみ より たのしみ の ほー が おおくなる かも しれない から うまれさせる こと わ よい こと だ と おもう かた も いる かもしれない。 じぶん わ そー わ おもわない。あたらしく ひと お うまれさせる こと お たとえる ならば、 たにん が くるしむ か くるしまない か お かのーせい に かけて しまっている から である。 そもそも たにん の くるしみ お かけて かけ お はじめない とゆー せんたくし、 つまり うまれさせない とゆー せんたくし が ある に も かかわらず。 さら に いえば、 しぬ くるしさ お まえ に して、それ いじょー の たのしさ など かんがえられる だろー か? かんがえられない と おもっている。 さらに いえば、 たのしさ と わ くるしみ が ない とゆー だけ である かのーせい も ある。

ともかく、 うまれさせる こと で くるしみ お あたえる こと わ ぼーりょくてき だ と おもう。

だから

これ いじょー くるしみ お つづける の わ やめた。

そして

これ いじょー くるしみ お つづける の わ やめてほしい。


ただし、 これら の ことば お こども の はなし に なった とき に ゆー こと わ もんだい が ある と おもう。 すで に うまれさせる けつだん お した ひと たち、 そして うまれさせられる ほんにん の あんぜん が まもられない かもしれない から だ。 うまれさせた こと に ざいあくかん お かんじる ひつよー わ ない。それより だいじ な こと が やまほど ある から だ。 ざいあくかん お いだく なら、 その こども の じんせん お しっかり まもって ほしい。 すべて の うまれさせられた ひと の りゆー の ない くるしみ お へらす こと が ひつよー だ。

あらた に くるしみ お かんじる そんざい お、 じぶん が かかわる なか で うまれさせられる の わ やめてほしい。
どーい お する こと なく ほか の ひと お うまれさせる こと わ やめて ほしい。
もう やめてください。 おねがいします。

さて、 「うまれさせる」 とゆー いいかた お えらんだ りゆー が ある。うまれさせる の わ、 おや と みなされる もの だけ で わ ない。 まして や おんな だけ の はなし で わ ぜんぜん ない の だ。せいさべつ の かんがえかた が うまれさせる こと と うまれさせられる こと お むすびつけている が、それ わ わるい。 しゃかい が うまれさせない もの たち に くるしみ お あたえて、 おや に まご わ まだ か と いわせたり する。 こども お うまれさせる かのーせい が ある せっくす お する とゆー こと わ、 おおく の ばあい、 けつだん している の だから、 かって に うまれてきた で わ すまない の だ。 と かいた が、 ちがう。 あきらか に、おとこ で なく おんな に けつだん お させる せっくす と わ おおくない。 もちろん、 へてろ の かっぷる の ばあい の はなし である。 せっくす わ しゃかい じょーけん や きはん など で さまざま な かたち お とる。 せいさべつ の しゃかい で だれ が けつだん した の か お きめる の わ むずかしい。 だから こじん お せめる ひつよー わ ない。 うまれさせなければ たいへん な よのなか が わるい の だ。

「うむ か うまない か わ わたし が きめる 」 まず これ が まもられなければ ならない。
その うえ で、 うまれさせない で ほしい とゆー こと が かんがえられる しゃかい に なって ほしい。

ぜつめつ お こわがる かたがた え。
ぜつめつ わ たしか に こわい が、 ぜつめつ させない とゆー こと わ、 じぶん の あいまい な こわさ お りゆー に ほか の ひと に くるしみ お あたえる こと である。
だが、 むりやり ぜつめつ させる とゆー こと わ、 くるしみ お かんじる もの から りえき お とりあげる こと に なる。 だから、 みんな が どーい して、 ぜつめつ していく おだやか な ぜつめつ が もくひょー に なる。これ が ゆーとぴあ だ。
おだやか な ぜつめつ お。 くるしみ の れんさ お たちきる。

しかし、 じっさい の ほとんど の もんだい わ、 そーゆー はなし で わ なく、 すで に うまれさせられた くるしみ お かんじている もの だけ お かんがえる ひつよー が ある ので、 「そーゆー もんだい じゃ ない」 とゆー ことば お つけたさない と いけない ばめん も おおい。

しかし、 こども お むりやり うまれさせる か、 なに も しない か とゆー こと の ちがい だけ わ もんだい だ。 なに も しない こと お えらんで ほしい。 それよりも、 こども の じんけん が まもられる よー に せいかつ しよー。 こども に たいする さべつ お なくそー。 ぎゃくたい や さくしゅ お やめよー。 こども が いなくても くるしまない しゃかい お つくろー。

かんちがい する しゅっせい しゅぎ しゃ が いる かもしれない から かいておく と、 じぶん わ、 「すべて の いたみ お かんじる もの お うまれさせる べき で わ ない」 と かいている。 しゅっせい しゅぎ しゃ や、 はんしゅっせい しゅぎ しゃ の いちぶ が いっている 「これこれ の じょーけん で うまれたら ふこー だから うまれさせる べき で わ ない」 と ゆー の と わ ちがう はなし お している。 「これこれ の じょーけん が なければ うまれさせて よい」 と その ひと たち わ ゆー だろー。 しかし、 じぶん わ いかなる じょーけん でも どんな いたみ お かんじる もの で も うまれさせる べき で ない と おもっている。れいがい わ、 しなない なにか や いたみ お かんじない なにか だ。そんな もの お うみだせる と ゆー ならば、 じぶん の おもっている せかい と わ まったく ちがう せかい なので、 ここ まで の はなし と わ ちがう はなし お する だろー。 けんじょーしゃ として まじょりてぃ として いきる ひと わ いわれた こと が ない だろー が すべて の もの わ びょーどー に うまれさせられない べき で あった。 けんじょーしゃ として の まじょりてぃ も ふくめて ぜんいん が そー だ。

この ぶんしょー わ くしゅん が かきました。
おわり。